六0年代半ばごろまでには、社内のほぼ全工場に導入されていった。 日本の国情に合った生産方式の完成に取り組んでいた一九五六年に大野は渡米し、GMやフォードの巨大な工場を見学した。
大野も、日本から研修にきていた他社の技術者と同じく、規模の大きさに驚かされた。 一方で、「あんなやり方で、からも本当に大丈夫だろうか」とも感じたという。
アメリカの自動車メーカーは、在庫の山を抱えて資金繰りに困り、倒産の危機に瀕するという苦しい体験を一度もしていなかった。 トヨタは苦境から出発していた。
大野は、「この違いは決定的に大きい」と強調している。 敗戦後の貧しさの中にあった一般庶民は、日本もアメリカのような豊かな固になって、いつかマイカーをもてるようになりたいと願った。
企業家たちは、日本でもアメリカのような大量生産工場を手に入れたいと思った官僚たちは、一日も早く一流国の仲間入りをするためにも、圏内の自動車工業を育成したいと考えた。 こうした三者三様の・自動車に対する夢が限りなく膨らむ中を実現しようと、大野に代表されるように、日本的な生産方式を生み出そうとする粘り強い現場の取り組みが続けられていった。
世界に例を見ないほどの驚異的な高度成長を生み出すエネルギーの源泉ともなり、やがて、旺盛なエネルギーが、世界一の自動車工業を生み出すことになるのである。 次に、日本と同じく第二次大戦の敗戦国となったドイツの状況を見てみよう。
戦前からドイツの自動車工業は日本よりはるかに高水準の技術をもっていた。 ベンツやBMWなどは、自動車より高い技術を必要とする航空機用エンジンや機体までも開発・量産していたのである。
それほどの実力をもった自動車メーカーは存在していなかった。 もっとも、伝統あるドイツでも、戦前には、アメリカのように自動車が大衆のものとはなっていなかった。

マイカーがもてるのはほんの一部の富裕階級や貴族たちに限られていた。 自動車メーカーのほとんどは、中世から延々と受け継がれてきた手工業的な少量生産で、そこにはクラフトマンシツプの伝統が息づいていた。
たとえば、ベンツ社の現場では、きびしい修業・訓練を経た者でなければ、車づくりに直接たずさわることはできなかった。 熟練工の腕に頼った生産方式だっただけに、芸術品のような車は生み出せても、数は限られ、結果として量産技術は育たなかった。
それにひきかえ、新大陸のアメリカでは、工業化の進展に労働力の絶対数が追いつかなかった。 熟練工はたえず不足がちで、さまざまな人種の移民や地方から都会に出てきた農民などの未熟練者に頼らざるをえなかった。
部品の規格化、標準化を行なって互換性をもたせるなど、素人でも仕事をこなせるように作業を単純化する必要があった。 こうした環境から生まれた単能工が、大量生産を実現させていったのである。
ベンツの第一号車が完成したのは、一八八六年だった。 一九二六年にベンツ社とダイムラ−社が合併して、ダイムラ−・ベンツ社が誕生した。
この一年前、アメリカのフォードがドイツに進出、GMもオペルを買収してドイツ市場に参入している。 ベンツの創立者たちが夢に描いていたのは、馬車にかわる衛生的な乗り物だったゴットベンツ「パテントモーターカーJ1886年型リープ・ダイムラ−が掲げた「最善か無か」とするスローガンに見られるように、完全を求める職人気質に基づいて生み出された高級車が、大衆相手の商売になるはずもなかった。

第一次大戦での敗戦時にはとくに直接的な被害を受けなかったベンツ社、ドイツの工業都市がことごとく廃虚と化した第二次大戦での被害は甚大だった。 一九四四年九月、ドイツ各地を空爆していた連合軍の爆撃機が、ベンツの工場を襲った。
当時、軍用車両や軍用機のエンジンも生産していただけに、爆撃は激しかった。 マンハイムの工場だけは二Oパーセント程度の破壊にとどまったが、他の工場は、七、八割がた破壊された。
終戦後、ベンツの役員会は、いったんは会社の解散を宣言したベンツには、世界一の自動車をつくり出す技術が残っていた。 アメリカに先がけて自動車を生み出したという誇りと伝統が残っていた。
決定はくつがえされ、平和産業としての自動車生産の再開を目指して、は焼け落ちた工場の整理、被害を免れた機械の整備を開始した一九四七年には早くも戦後の第一号車であるベンツ170Vを完成させたもっとも、戦前の型のままだった。 翌年には、戦後開発の1705、170Dの二車種が新たに発表された。
ベンツの生産は順調に伸び、一九四八年に二千五百台、四九年には一万七千台にもはね上がった。 一九五一年には、戦前からの路線を踏襲した中級クラスの六気筒、百七十馬力の220、高級車に自動車レ−スへの復帰を果たした。
ヨーロッパでは戦前から自動車レ−スがさかんで、最高峰のFーから地方の草レ1スにいたるまで、各社がスピードを競い合うことで、結果的に自動車技術を向上させていた大きな大会では、ベンツ車が圧倒的な強さを発揮していた。 敗戦からわずか七年にしてベンツ車はレ1スに復帰し、常勝を続けることで、意気消沈していたドイツ国民に自信を取り戻すきっかけを与えることになる六0年代半ばから、ベンツは高級乗用車に特化した経営戦略を打ち出した。
あえて、生産台数を需要よりも低く設定することで希少価値性を高め、ことで高価格を維持しようとしたのである一九六五年、傘下のアウトユニオンをフォルクスワーゲンに売却し、量産乗用車の分野から撤退した。 それと同時に、クルップ・グループの商用車部円であるラインシュタ−ル・ハノマークを買収して、大型パス・トラック部門でヨーロッパ最大のメーカーにのし上がった。
七0年代、八0年代を通じてつねに売り上げを伸ばし、世界の高級車メーカーとしての名声をさらに揺るぎないものとしていった。 世界の顧客からのパック・オーダーを十分に抱えて、年間五十万台ほどの中量生産をして高い利益を確保するという経営スタイルである。
開発には十年をかけてじっくりと取り組み、日本のメーカーと違って、組み込む主要部品のほとんども社内で生産した。 伝統的な自動車づくりが支配的だった戦前のドイツにあって、画期的な計画がスタートした。

ヒトラーが提唱した国民車(大衆車)計画である。 少し前の一九三四年一月十七日、ドイツ新政府はフェルディナンド・ポルシェから「ドイツ人民のための車」に関する詳細な設計案を受け取っていた。
まもなくして、ヒトラーの意向を受けたドイツ自動車連盟とポルシェとのあいだで、十ヵ月以内に国民車のプロトタイプを完成させる契約が交わされ、計画がスタートした。 当時、民族意識の高いドイツの大衆は、ベンツ車のレ−ス圧勝に熱狂していた。
それだけに、街角を走る金持ちの高級車を羨望の眼で見つめ、あの流れるような曲線美の自動車を、自分もいつかは手に入れたいとの願望をつのらせていった。 大衆の心をつかみ、企図する方向へと簡導していくことにおいて天才的であったヒトラーは、彼らの自動車に対する羨望の念を見逃さなかった。
当時、ヒトラーほど自動車に関して先見性をもった指導者はいなかった。 毎年、ベルリンで聞かれた自動車ショーには必ず顔を見せていた。
一九三四年のショーでは、次のような弁舌を披露している。

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